なかまの声では、個人の考えや想いを尊重し、インタビューを元にそのまま掲載しています。
リンネットが特定の治療法や物品を推奨するものではありません。
ご自身の治療は、主治医や医療者とよく相談して決めるようにしてください。
リンネット代表・たまちゃんこと岩澤玉青さんのストーリー。絶望の中から、希望に向けて道を切り開いてきたたまちゃんの生き方が、とても魅力的です。
岩澤玉青さん(フリーランス、団体運営)
[上肢リンパ浮腫]
神奈川県在住。二人家族+猫2匹。
2012年41歳でステージⅡB~Ⅲの乳がん発覚。
抗がん剤、乳房温存術、リンパ節郭清、放射線治療、分子標的薬、ホルモン療法(途中不妊治療)。
2015年蜂窩織炎を機にリンパ浮腫確定診断。療)。
2015年と2019年、2回LVA(リンパ管静脈吻合)手術を受ける。
あきらめても失っても、絶望したとしても、またいつか希望は生まれる
「がんになっても子供は産めますか?」
はじめに乳がんが見つかった経緯を教えてください。
乳がんのセルフチェックでしこりに気づいたのは41歳の時です。乳がん検診は年1度受けていたので、すぐにかかりつけのクリニックで検査をしたところ、10か月前にはなかった3.5cmのしこりが画像にくっきり映しだされていました。
生検から1週間後、「残念ながら悪性でした」との医師の言葉に、私の第一声は「先生、がんになっても子供は産めますか?」でした。
幼稚園からの夢は、子供のいる幸せな家庭を築くこと。2つ目のアメリカで働く夢をかなえて帰国し、結婚。38歳から不妊治療を始めていたので、がんよりも、がんで子供が産めなくなることの方がショックでした。
子供を持つという一縷(いちる)の望みをつなぐために医師にかけあい、当時まだ日本に2か所しかなかった、卵巣組織凍結ができる大学病院につないでもらうことができました。
術前抗がん剤開始まで1か月。エビデンスが無いに等しい(当時)治療へ向かい、受精卵と卵巣組織の凍結と、できる限りの準備に奔走、泣いている暇などありませんでした。
ご自身の命の心配は二の次だったのですね
夫も家族も「子供のことはいいから」と妊孕性(にんようせい)の治療に反対しましたが、今諦めたら一生後悔すると思い、何とか治療の両立を認めてもらいました。あとは一刻も早く不妊治療を再開するために、淡々とがんの標準治療をこなすのみ。
ただ、リンパ節転移が分かり、ブドウの房のようになった脇のリンパ節の画像を見た時は、「私もう死ぬんじゃないの?」と怖くなったのを思い出します。
リンパ浮腫に気が付いたきっかけは?
左の脇のリンパ節を郭清したので、病院のアドバイス通りに退院後、毎日マッサージをしていたら、腕がむくみ始めたんです。看護師さんに話し、「こんなふうにやっています」と実演したところ、「そんなゴリゴリと力を入れたらだめ、リンパ管がびっくりしちゃう」と、改めてセルフリンパドレナージ(SLD)の指導を受けました。
リンパ浮腫を疑った主治医は、すぐに弾性スリーブとグローブの指示書を出してくださり、看護師さんから提示された数種類のスリーブのなかで、一番人気の製品を購入しました。
その後、腕のむくみは一進一退でしたが、「これくらいならリンパ浮腫と付き合っていける」と考えていました。
リンパ浮腫が悪化したのはいつ頃ですか
術後2年半経ったある日、発熱とともに急に腕がはれてきたんです。正式にリンパ浮腫と診断がおり、院内に新設されたリンパ浮腫外来の予約を入れました。
ところが帰宅後から症状が日に日に悪化し、腕はパンパンにはれ、高熱も下がらない。外来の予約は1週間も先。慌てて 急患でリンパ浮腫を診てくれる医療施設を検索すると、美容サロンも含め情報がたくさん出てきて、どこに行けばいいか判断できません。
絶不調のなか、つてを頼りようやく症例数が多く信頼がおけそうなリンパ浮腫治療専門のクリックを探し当てました。
正しい情報にアクセスできず、間違ったケアを続けていた……
クリニックの医師からはすぐに「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」と診断され、着用していたスリーブを見るやいなや「このスリーブはあなたに合っていない。すぐにはずしなさい」と厳しく言われました。
合わないスリーブはリンパ浮腫悪化の原因になることや、炎症があるときに圧迫は厳禁だと知りませんでした。情報がなく、間違ったケアをしていたんです。医師からリンパ浮腫のイロハや蜂窩織炎について詳しく教えていただき、抗生物質の処方と2週間の安静を言い渡されました。
スリーブはその後10本以上試し、2年がかりで自分に合う製品を見つけました。
長い旅路の末たどり着いたスリーブたち
蜂窩織炎を発症してリンパ浮腫に対する考え方は変わりましたか?
蜂窩織炎によるリンパ浮腫の悪化は、がんと分かって子供が産めなくなるかも、という絶望感と匹敵するくらいショックでした。その頃は乳がん治療が一段落し、不妊治療再開を前に体力づくりを始め、映像翻訳の仕事も順調。止まっていた時間が動き出していたので、この先に多くを諦める人生が待っているように思えて、奈落の底へ突き落された気分でした。
何よりツラかったのは、乳がんの友達からも取り残されてしまう焦燥感です。同じ時期に治療していた友人たちは元気になっていくのに、私だけ共有できない。ずっと「こんなはずじゃなかった」と思っていました。
誰にも会いたくないとふさぎ込む私を見かねた夫が「(あなたの)大好きなNYに行っておいでよ」、と送り出してくれたことがありがたかったです。
私のエネルギー源、ニューヨーク
疲れると行きたくなる場所です
深い落ち込みから立ち直る「きっかけ」はありましたか?
ひとつはリンパ浮腫の主治医との出会いです。蜂窩織炎の初期のころ、共同代表を務める乳がん患者会にリンパ浮腫の専門医でもある形成外科医が訪ねてこられ、スリーブをしている私に「いまは外科的治療ができるんだよ、岩澤さんは適応じゃないかな」と声をかけてくださったんです。
ただ、いきなり手術と言われても、と最初は全然乗り気になれなくて(笑)。医師やセラピストさん、夫と片っ端から意見を求めると、全員が賛成。それに背中を押され、LVA(リンパ管静脈吻合)の手術を受けることにしました。
どん底から救ってくれた1冊の本とリンパ浮腫専門医との出会い
LVAは私には効果てきめんでした。特に手首から指先までコロコロになっていたむくみが、術後スッと引き、常にあった重だるさや痛み、しびれが消えたんです。頻繁に起こっていた原因不明の発熱もなくなりました。うれしかったですね。からだが楽になるとともに、気持ちも安定していきました。
もうひとつ、私を救ってくれたのは、友人がくれた1冊の本でした。「がん哲学外来」の提唱者として知られる樋野医師のご著書にあった「人生は1周遅れぐらいのほうがちょうどいい」というフレーズに目が留まりました。
トップでもビリでも、ゴールにはそれぞれ違った価値がある。周回遅れになっても最後まであきらめなかった姿に人は感動する、という解説を読んだとき、「そうか、人と比べるのも昔の自分と比べるのもやめよう」。
自分のペースで走ればいいと思えるようになって、生活の中でさまざまな試みを始めました。
やりたいことはトライ&エラー。
待ってくれていた仲間とプチトライアスロンを涙で完走!
それまでリンパ浮腫の「やってはいけない」とされていることは全て諦めるしかないと思っていました。でも最初からあきらめず、好きなことは工夫して試してみて、自分にできることと限界点を見極めようと。トライ&エラーです。
例えば温泉に入ると必ずむくむけれど、入浴後すぐに弾性包帯を巻けば朝までには引く。パソコンは1日中使うのは無理だけれど、パソコンの位置を高くして操作すれば、休憩を入れながら数時間は使える。いろいろ自分流が増えるにつれ、気持ちが自由になっていきました。
そこで挑戦したのが、3人1組で参加するプチトライアスロンです。仲間とエントリーすると決めた矢先に蜂窩織炎になった私を、みんなが待ってくれていました。
LVAの術後に練習を再開し、腕に負担の少ない平泳ぎで泳ぎ切り、みんなでゴールしたときは涙で顔がぐちゃぐちゃになりました。このゴールがリンパ浮腫と共に生きていくことを心から受け入れられた瞬間でもありました。
リンパ浮腫を受け入れられた後の人生をどう過ごしていますか?
ホルモン療法を休薬して再開させた不妊治療は、48歳の誕生日で終わりました。子供を持つ夢はかなわなかったけれど、不思議と気持ちは晴れやかでした。
その後も腕のむくみはあるものの、スリーブを外す生活を目指して、2019年に2回目のLVAを受けました。
「リンパ浮腫は大切ではないの?」この悲しさを原動力に
がんの術後、親しい仲間と病院内に患者会を作りましたが、新たに2018年から「神奈川県がん患者団体連合会」に関わり、小中学生にがんを伝える「がん教育」に力を入れています。
翌年に、このリンパ浮腫の患者団体「リンネット」を立ち上げた理由は、乳がんと比べて、治療施設や情報が少なく、同じ病気の人と会うことも極端に難しく、とても困ったから。がんの後遺症なのに、保険が使えない治療があると知り、まるで「この病気は大切ではない」と言われているようで悲しかった経験からです。
また、リンパ浮腫の主治医からアメリカにはリンパ浮腫の大きな患者団体があると教えてもらい、自分たちにも状況を変えることができるのではと思い、不妊治療を終えたのを機に、相棒(現副代表)を得て、数人のメンバーとともに活動を始めました。
3つの会は、私のライフワークとして携わっていきたいと思っています。
これから始めたいことの1つ
リンパ浮腫の仲間に伝えたいことは?
がん教育の授業でいつも子供たちに伝えているのは「あきらめても失っても、また希望は生まれる」ということです。人生どうしようもないこともあるけれど、それでもまた希望は生まれるんだよ。絶望感を味わっても、きっと希望が見つかっていくよ、と。同じことを、仲間に伝えたいと思います。
基本は保湿をしてスリーブを着用し、状態によってセルフマッサージやバンデージをする2回目のLVA以降は調子がいい日はスリーブを外して生活することも。自宅で週2~3回、スリーブを付けストレッチや軽い筋トレを実施するとともに、食事による減量を実施中。浮腫が悪化したときはクリニックでセラピストさんによる用手的ドレナージを受ける。
弾性包帯はむくみ具合によって使い分けています
(聞き手・山崎多賀子)