なかまの声では、個人の考えや想いを尊重し、インタビューを元にそのまま掲載しています。
リンネットが特定の治療法や物品を推奨するものではありません。
ご自身の治療は、主治医や医療者とよく相談して決めるようにしてください。

30歳で子宮頸がんに罹患してからのAyakoさんのストーリーです。26年に及ぶリンパ浮腫との付き合いの中で、暗闇から抜け出すまでの過程や、新たな取り組みまで、貴重なお話を前編・後編に分けてお届けします。

矢後綾子さん(患者会認定NPO法人オレンジティ運営)
[下肢リンパ浮腫]
静岡県在住。家族構成 夫、義母(4年前から同居)。
1995年子宮頚部の神経内分泌性小細胞がん、子宮頸部腺がん1b期と診断。広汎子宮全摘出術(右卵巣温存)、骨盤内のリンパ節郭清。
手術直後、下腹部から右脚にリンパ浮腫発症。骨盤内にリンパ嚢腫発覚。

絶望と孤独の中でも、おしゃれの工夫を忘れない

子供を望んでいた結婚3か月後に大切な子宮を失った

子宮頸部にがんが見つかった時のことを教えてください。

結婚前から異変があって婦人科を受診していましたが、その時は重篤なものではないとの診断だったんです。「出産を考えるときにまた治療しましょう」ということになり、改めて受診をしたら、子宮頸がんと告知されました。大学病院で手術をしたところ、神経内分泌性小細胞がんと腺がんと診断がくだりました。結婚してまだ1か月、30歳でした。

子供が早くほしくて勤めていた会社を寿退社したのに、結婚から1か月後にがんが見つかり、その2か月後には、広汎子宮全摘出術を受けることになるなんて。
子宮を失ったことに生きる気力もなくなり、がんで死んでしまう恐怖や、早く治りたいといった感情は一切ありませんでしたね。「こんな体でも生きていかなければならないのだろうか」と暗闇の中にいるような日々でした。

家族にだけ知らされた余命宣告

ご主人やご家族はどのような状態でしたか

私ががんと診断されたとき、夫や家族には「余命1年」と告げられていました。当時、神経内分泌性小細胞がんは治療法が確立されていない希少がんで、腺がんも予後がよくない。通っていた大学病院で私と同じ病名の患者さんは過去に4人しかおらず、皆さん1年ほどでお亡くなりになったそうです。
助かる見込みがないのならば、抗がん剤による脱毛や吐き気で苦しませるのはかわいそうだからと、家族と主治医で相談し、術後化学療法の提案もありませんでした。

ただ、私がその話を知ったのは5年後のことで、早期のがんだと思っていました。私が死んでしまうかもしれないと思った夫は、手術から1年後、苦手な旅行の計画を頑張って立て、バリ旅行へ連れて行ってくれました。
私は飛行機に乗ることや、腹部の傷やリンパ浮腫の心配もありましたが、術後1年目のお祝いだと思い、ラフティングなどをして旅を楽しみました。

バリ島では思いっきり楽しみました

未来の話ができず孤独を募らせていった日々

旅から戻ってからの日々も、余命宣告が脳裏にある夫や家族はツラかったのでしょう。がんのことや将来のことが話題に上ることは ほとんどありませんでしたし、私が勇気を出して話してもはぐらかされてしまうんです。
何も知らない私は「子供はいなくても一緒に生きていこう」、という言葉が欲しかったんだと思います。未来の話が一切できない状況にどうしていいかわからず、孤独を募らせ、心に空いた穴は広がるばかり。
まだ20代の夫と早く別れてあげなければと、そればかり考えて生きていました。

ご自身の余命の話はどのタイミングで知ったのですか?

病院へは定期検査と後遺症のケアのため通っていましたが、術後5年目の検査の日、主治医から「余命1年」の診断だったことを打ち明けられました。
驚きと同時に、これまでのちぐはぐな会話や態度、すべてが「そうだったのか!」と腑に落ちて。家族がどんな思いでこの5年間を過ごしてきたかと思うと涙が止まらず、泣きながら運転して帰宅しました。
夫はずっと私の余命を受け入れられずに苦しんでいたようでした。

余命をくつがえしたのですね。ただ後遺症も残った…

できる限りがんを取り残さないように、子宮と片側の卵巣、骨盤内のリンパ節もしっかり切除したおかげなのか、再発もなく26年たちました。病巣をしっかり取り切れた珍しいケースとして、後に主治医は学会発表されたようです。

リンパ浮腫や排泄障害…たくさんの後遺症と共に生きる

術後すぐに後遺症として、重いリンパ浮腫が出ました。おなかが妊婦さんのようにポンポコリンになり、右脚もパンパンになって。命よりも子供が産めないことに絶望していた私は「こんなふうになっちゃった」と、脚やお腹を入院中に親しくなった同室の患者さんに見せびらかしました。
ただ、おなかを見て「妊娠したのでは」という噂が流れた時はとても苦しくなりました。

さらに、排泄障害や性交障害、更年期障害なども後遺症として残りました。当時の婦人科の大きな手術は、特に排泄の神経も傷つけてしまい、尿意や便意の調整が難しくなってしまうのです。なので、入院中に自分で排泄コントロールができるようになったら退院になります。
排泄障害も人によって違うのですが、私はトレーニングをしても腹圧をかけないと尿が出ないままでしたが、なんとか基準をクリアした7週間後に退院しました。

複数の後遺症を抱えて落ち込んだのではないですか

一生付き合っていくリンパ浮腫や排泄障害。ダブルの後遺症を抱え、普通なら落ち込みますが、当時は妊孕性を失ったことの精神的ダメージが大きく、それなりに受け止めていたのだと思います。

婦人科の手術も今は術式が進化して、排泄障害になる方が減ったようですが、やはり一定数いらっしゃいます。特に私と同じ時代に婦人科の手術を受けた方で、排泄障害やリンパ浮腫を抱えて長年苦労されている方は多いと思います。尿意がないのに突然尿が漏れてしまったり、加齢による影響も出てきます。
婦人科の手術はいろいろな意味で、術後のQOL(生活の質)に影響しますね。

尿漏れ対策のショーツも最近はおしゃれなものが☆

リンパ浮腫の症状は術後から変化はありましたか?

パンパンにむくんでいた脚と下腹部も、骨盤内のリンパ液を抜く処置を繰り返すことで徐々に引き、退院時は脚の周径の左右差が1センチになりました。
リンパ浮腫に関してはセルフケアの直接的な指導はなく、小冊子と、ハイソックスタイプの弾性ストッキングのパンフレットを渡されただけでした。
私は右の足首と下腹部がむくみやすく、リンパ液が溜まるととにかく下半身が重だるくなります。最低限のことはしようと、退院後も疲れたら寝転んで心臓より上に脚を上げる、ということは生活で取り入れていました。

術後1年目からは下肢のリンパ浮腫にいいと聞いたアクアビクスを始めました。水圧で圧をかけたままエクササイズができるのでリンパの流れが良くなり、排泄障害に効きそうな骨盤底筋や下肢の筋肉も鍛えられ、脚に負担もかからず体が軽くなるんです。
ずっと続けてきましたが、コロナ禍でプログラムはお休みになってしまいました。早く再開したいですね。

孤独から救い出してくれた「同志」と「患者会」の存在

抜け殻の状態から這い上がるきっかけはありましたか?

2002年に設立された婦人科がんの患者会「オレンジティ」の存在が大きいですね。前の年に「婦人科がんの患者さん集まろう」「スタッフも募集中」の告知が新聞に掲載されていたんです。
私の周りには子宮頸がんで子供が産めなくなった人はいなく、家族とも分かち合えず、ずっと孤独で苦しかったのですが、代表の河村さんの経歴を読むと、私と状況がとても似ていたんです。同じ経験をした人と、この気持ちを共有したいと心から望んでいたので、悩んだ末に勇気を出して手を上げました。
河村さんは初めて気持ちが分かり合えた大切な存在で、感謝をしています。このことが運営スタッフとして活動する原動力になっています。

患者会に参加したことで、私にも変化がありました。
がんの知識が身につき、なにより他の方々の経験を聞かせていただく中で気持ちが落ち着き、自分のことが客観的に見えるようになりました。外へ目を向けて行動する余裕ができ、私自身が変わったからでしょうね。
家族に感じていた複雑な思いも理解できるようになり、少しずつ孤独感も消えていきました。

緩和医療学会でポスター発表も

「あれもダメ、これもダメ」情報に苦しめられている患者さんの存在

患者会で聞くリンパ浮腫の悩みで感じることはありまか?

オレンジティでは設立の翌年2003年からリンパ浮腫の勉強会や交流会をスタートしています。皆さんからリンパ浮腫の悩みを聞くと、情報量が増えるにつれ、「あれもダメ、これもダメ」と医療者から生活面でやってはいけないと指導される項目が増えていると感じます。
特に下肢の場合、ジーンズはダメ、ヒールもダメと、おしゃれを諦めなければいけないことに女性として自信を失ってしまう方が多いです。
私と同年代の方は、リンパ浮腫の私がひざ下丈の短めのスカートを履いているのを見て、「あ、スカート履いていいんだ」とおっしゃいました。一生スカートは履けないと思っていたそうです。
私が発症したころは情報も少なかったので制限に縛られることはなく、左右差が1センチあっても、浮腫の状態をみながらジーンズもヒールも履いていました。一日中ヒールを履いているのでなければ、最初からダメと決めつけずにおしゃれを楽しむ余裕が必要だと思います。
浮腫歴の長い私が発信する意味を改めて感じた出来事です。

ところが、忙しく過ごすある日、リンパ浮腫が悪化し、毎日のケアの大変さに直面することとなりました。

後編へ続く▶︎▶︎▶︎